東京焼盡 [読書感想文]
戦時下の市民生活、「盡」とは「尽」の旧字。
どうも昨今目にする戦争中の暮らし向きと言うとNHKの朝ドラでやるような異常な臨戦態勢の日々と言う事に決めつけられていて、そんな生活を何年も続けられる筈もないだろうにと毎度思います。そんな中映画「この世界の片隅に」で戦争中の庶民の生活を描写していて良いなと思いましたが本書が正しくそんな風、内田百閒先生はそれこそこの世界の片隅にのヒロインすずさんみたいな調子だし。
この世界の片隅にが広島県呉市と言う軍港のある町が舞台なのでアレはまた特殊なのだろうと思います、内田百閒先生は戦争中は東京の番町と言う山の手の自宅から丸の内の丸ビルと日比谷通りの間にある郵船ビルに毎日出勤する勤め人で、通勤の行き帰りと日々の酒と食べ物についての日記と言う体裁。昭和19年11月1日に初めて東京で空襲警報が鳴った日から昭和20年8月21日までの日記。
日記の書き始めの頃は段々と窮乏してタバコも配給になったとかボヤいているだけなのですが、以後ほぼ毎晩警戒警報や空襲警報が鳴っては服に着替えて解除を待ちつつ避難の準備は怠らないと言う有様。都市爆撃と言うものが神経を消耗させるのも狙いなのだなとつくづく思う、自分はこんな生活が続いたらすぐに参ってしまうだろうなと。
そして警報がなるだけではなく当然爆弾を落としてその度に東京が少しずつ焼かれていく、東京の空襲と言うと3月の下町地区の大空襲が有名ですが、実は4月に城南地区の大空襲と5月25日に山の手地区への大空襲があり、その5月25日にとうとう内田百閒先生は焼け出されてしまいます。日記を読むと空襲の度焼け野原が広がっていくのですが、それでもその焼け跡の中を省線電車(今のJR線ね)や市電がすぐ復旧して人々は会社に出勤するのが不思議でもあり日常とはそんな物なのかなとも思う。
ゾンビ物の如く日常が少しずつ崩壊していって、電気が停電になりガスが停まり水道が断水し薪が手に入らないので風呂も沸かせず。帰宅して風呂に入り晩酌してから夕食と言う日常の維持が困難になっていく過程、家を焼かれた後は食事のカロリーもバランスも無くなって発熱や下痢が続いたり体が腫れたり。蚊や蚤に悩まされたりと食糧事情や衛生事情が一気に悪化するのですがこう言う描写もNHK朝ドラなんぞはやらないよね。
それでも日本郵船の古日氏筆頭に周りの皆が内田百閒先生にお酒や食料を届けてくるのが謎、巻末に登場人物一覧があるのですが件の古日氏については解説が無く何故そこまで骨折りするのかが不明。不明なのは嘱託の日本郵船に午後出勤する内田百閒先生もそう言う契約なのかそれともちょっとだらしないのか?朝の支度に何時間も要して恥じてみたり奥様が会社で食べる様に作ってくれた昼食の弁当を玄関先で食べてみたり、その辺りは伝記でも読まないと不明。
物が無いと言いつつもぶどう酒を、ヱスキーを、ビールや日本酒を6月位まではどうにか手に入れ続け、お米も借りたり返したりしながらなんとか調達し続けたり。とは言っても先日行った九段の昭和館の展示では、戦争末期の配給米は大豆で嵩増ししてあったとかなのでどうだろう?日記の始まりではラジオの調達が一大関心事だったのが酒になりタバコになり米になり蚊取り線香になり、最終的にとにかく食べる物が有ればと言う状態に追い込まれて四ツ谷駅で痩せた相撲取りを見かけたりと食べ物が本当に無かったのだなと。
5月25日の家が焼けた時の日記がやはりキモですね、低空飛行で炎が反射して腹がイモリの様に真っ赤なB29に窓から火を吹いて燃える東京駅。決死の脱出行が下町の空襲ほど悲惨でも無いのは住宅密集地でも無ければ人口も下町ほど密集していないから違うのだろうか?避難先の男爵家で先に避難していた未亡人に色々と意地悪をされて「しゃもじ」とあだ名を付けてみたりと人間非常時になるとそんな物だろうか?それでも日本人の変な同調圧力を批判してみたり食べ物が無いからと言って若い女が人前でものを食べるのを見て眉をひそめたりと常識人でいつづけるなと。
笑ったのは昭和20年の日記から月齢も書くように心がけていたら、毎日新聞と朝日新聞の月齢が1日違っており、朝日新聞を正しいとしていたら実は正しいのは毎日新聞の方で、朝日新聞は謝罪も説明もなく黙って修正していると憤慨するくだり。三つ子の魂百までなんだな。
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